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多摩産材及び東京の林業の歴史

東京の林業の歴史を知るHistory

林業のはじまり

日本では古くから人の手で植栽を行い、育て、伐採して利用し、そして再び造林を繰り返す「人工林」による林業を主としています。日本の造林業の起源は古く、15世紀の国内最古の植林といわれる静岡県・天竜をはじめ、16世紀には奈良県・吉野、石川県・能登で林業が起こったといわれています。

東京でも、現在の奥多摩地域の山地で栄えた「青梅林業」と、現在の東京23区の平地で栄えた「四谷林業」が生まれました。

中世の頃、東京の奥多摩、埼玉県、神奈川県北部は、武蔵国「武州」と呼ばれており、木材はその地の支配者であった三田氏によって神社仏閣などの建築用材として利用されるようになりました。これが近世まで続く「青梅林業」の起源とされています(諸説あります)。当時、木材の供給地を「杣山(そまやま)」と呼び、武蔵国の杣山であった多摩地方は「杣保(そまのほ)」と呼ばれていました。

一方、四谷林業の起源は不明ですが、四谷に炭薪問屋、植木屋及び材木屋があり、ここで扱われた木材を「四谷丸太」と呼ぶようになったといわれています。四谷丸太は木目が真っすぐで光沢があり、良材と言われる吉野丸太にも劣らない材として高く評価されたといいます。

江戸における林業の動き

東京の林業が大きく動きはじめたのは江戸時代に入ってからのこと。それまで、木材は下駄、桶、漆素材などの加工物産を中心に普及していましたが、江戸幕府が開かれると、江戸城建築など各地で城郭や寺院を建設するため、木材の需要が高まります。また江戸の大火といわれる多くの火災が発生し、町の振興のため、木材需要が急激に増加しました。

当時、武州杣保は幕府領となり、地元の材木商人が森林の管理を行っていました。地元の人々とともに、林業の先進地であった徳島県・阿波、長野県・木曽、和歌山県・紀伊などから呼ばれた職人が入山して木を伐採。伐り出された木々は多摩川を利用し、木をそのまま流す「管流し」や、筏を使った「筏流し」によって江戸まで運搬されていました。

江戸の町はたびたび大火に見舞われ、関東諸国をはじめとした東海及び中部山岳地帯の天然林が伐採されました。武州杣保でも大規模な伐出が行われ、一時、多摩地域の山林資源の大部分が採り尽くされたといわれています。

多摩地域では寛文8(1688)年頃から人の手による造林が始められ、山林経営の基礎が作られていきました。江戸中期、多摩地域の年間出材量は筏4,000枚から4,500枚だったと記録されています。

「東海道五十三次の日本橋の様子」江戸の町の発展には木材は必要不可欠なものであった:イメージ
「東海道五十三次の日本橋の様子」江戸の町の発展には木材は必要不可欠なものであった

多摩川から江戸に木材を供給

青梅林業の特長の一つが川を利用した木材の運搬方法です。
伐採した木々は、丸太などを組んで敷いた「木馬道」を使い、多摩川上流の木材集荷箇所まで人力で運びます。運ばれた木材は、岩場が多くて川幅の狭い多摩川上流から1本ずつ流され、川幅の広い下流に集められます。集まった木材は、土場で筏に組み立てていきます。筏乗りは、この組み立てられた筏に乗ってさらに川を下り、多摩川を約4〜6日かけて川井、沢井、青梅、長淵、羽村、熊川、拝島、日野、府中、調布、登戸、六郷あるいは八幡塚村まで木材を運びました。多摩川域において、筏乗りによる運搬は大正末期まで行われました。
この一連の運搬方法は、林業の先進地であった木曽で考案されたことから「木曽式運材法」と呼ばれ、全国の林業に継承されました。

「木馬道」を使って木材を運ぶ様子(あきる野市提供):イメージ
「木馬道」を使って木材を運ぶ様子(あきる野市提供)
土場で「筏組み」をする様子(あきる野市提供):イメージ
土場で「筏組み」をする様子(あきる野市提供)
多摩川源流域・奥多摩町古里地区(古里附橋)付近での「筏流し」の様子(東京都水道歴史館所蔵):イメージ
多摩川源流域・奥多摩町古里地区(古里附橋)付近での「筏流し」の様子
(東京都水道歴史館所蔵)
多摩川上流域・羽村取水堰付近での「筏流し」の様子(東京都水道歴史館所蔵):イメージ
多摩川上流域・羽村取水堰付近での「筏流し」の様子
(東京都水道歴史館所蔵)

明治時代に入ると木材と石炭の運搬を目的に「青梅鉄道」が開通します。青梅鉄道の延伸や道路の整備が進むと、木材の運搬は次第に貨車やトラックに切り替わり、筏流しの姿は見られなくなりました。

近代の生活を支えてきた木材

明治時代に入ると、都市の近代化が進みます。建築や鉄道敷設など、様々な用途に木材が利用され、全国各地で森林が伐採されます。これまで、藩や寺社などが管理していた森林は国が所有するようになり、国は国有林を設置。明治政府は「森林法」を制定し、森林の伐採を規制しました。

その後も第一次世界大戦、日清戦争、日露戦争への参戦や戦後復興のため、木材の需要は拡大。林業は国内基幹産業の一つとなっていきます。

このころ、都市部で栄えていた「四谷林業」は、林業が行われていた平地が農地に転換されるなど、次第に林業が衰退していきました。さらに、スギの葉や主軸、枝が枯れてしまう「スギ赤枯病」の被害が拡大したため、スギの育苗や四谷地域での造林をやめる者が増加し、森林面積は減少傾向となりました。そして大正時代末期、この地域での造林は行われなくなり、四谷林業は消滅しました。

第二次世界大戦後の林業

日本の林業は第二次世界大戦後に大きく変わります。戦災による復興需要の拡大、さらに1950年代後半にはじまる高度成長期の住宅ブームにより、木材の需要は最盛期を迎えます。このころ、国産木材の供給量は増加傾向であったものの、拡大する需要に応えられず、木材の輸入が増加。安価な輸入木材の利用が増えると、国産木材の価格は下落しました。

それに伴い、林業従事者の数は減少。昭和30(1955)年には約52万人だった林業従事者数は、昭和60(1985)年には約13万人となりました。さらには1990年代にバブル景気が崩壊すると、木材需要と価格の低下はさらに進み、国内林業は長い低迷を続けます。

「木材問屋街の貯木場」川面に多くの丸太が浮かべられた東京・深川の様子:イメージ
「木材問屋街の貯木場」川面に多くの丸太が浮かべられた東京・深川の様子

変わりゆく林業

国は林業の持続的かつ健全な発展を図るため、平成13(2001)年に「森林・林業基本法」を制定。さらに平成15(2003)年からは「緑の雇用」事業を開始し、新規就業者を対象とした研修等について支援を行い、全国で2000人程度だった新規林業従事者数は3000人程まで増加しました。
東京都でも林業技術者の確保・育成のための研修等の実施や、雇用の安定化及び労働環境改善のための林業事業体への各種支援を行うほか、適切な森林循環を促進するための様々な事業を行っており、持続的な森林の整備及び林業の振興を図っています。

東京をはじめ、全国各地で伐り時を迎えている人工林。またSDGsや地球温暖化対策等、環境保全への意識が高まる現代。林業は木材を生産するだけではなく、私たちの生活を支える、とても重要な産業なのです。

林業従事者:イメージ
林業従事者イメージ
参考