文字サイズ

木材を活用する専門家たち

特集09

木育ノスゝメ

木育ノスゝメ:イメージ

森林大国である日本を「木のおもちゃ大国」にしたい
おもちゃ美術館の空白県をなくしたい

東京おもちゃ美術館の館長で、パパやママ、子どもたちに木のおもちゃへの触れ合いの場を提供している多田千尋氏。東京おもちゃ美術館では「木育」の推進や、「ウッドスタート宣言」「木育サミット」など、様々な取り組みを行っています。
本特集では、多田氏の活動のきっかけから、木育の展開、今後の展望まで、様々なお話をお伺いしました。

多田 千尋:イメージ1

東京おもちゃ美術館 館長
(特定非営利活動法人芸術と遊び創造協会 理事長)

多田 千尋Chihiro Tada

NPO 法人芸術と遊び創造協会理事長、東京おもちゃ美術館館長。おもちゃ美術館を全国に10館創設。平成22年より林野庁とともに、国内最大の木育大会「木育サミット」を開催し、長門市、秩父市をはじめ、全国3県、50市町村、20企業をウッドスタート宣言させ、木育を全国的な国民運動に押し上げる。 平成20年春、東京・新宿の廃校に開設した『東京おもちゃ美術館』の経営が評価され、経済専門誌『週刊ダイヤモンド』で「日本の社会起業家30人」の一人に選出される。また、寄付社会の構築が評価され、「2014クラウドファンディング」「2015ファンドレイジング」の大賞を受賞。さらに、ウッドスタート宣言の仕組みが評価され、文部科学大臣賞を受賞。早稲田大学、お茶の水女子大学では高齢者福祉、保育の教鞭も取り、著書に『日本伝承遊び事典』(黎明書房)、『赤ちゃんからはじめる木のある暮らし』(幻冬舎)等。

旧四谷第四小学校校舎:イメージ

おもちゃ美術館成創設の経緯

実は、私の父が美術教育の専門家で、小学校の図工の先生や幼稚園の先生たちの指導育成をする立場にいたのです。それは公的なものではなく、私的に自らで、日本の美術教育─音楽、文学なども含めた芸術教育というものを広めていこうと、昭和28年に芸術教育研究所を設立しました。

その芸術教育研究所の時代、父の関心事はフランスやドイツ、ロシアなどの芸術先進国に行くことでした。そして海外に行くたびにおもちゃの素晴らしさに感銘を受けたみたいなのです。子どもたちが何気なく遊んでいる積み木やおもちゃ、赤ちゃんが振っているガラガラなど、ものすごく洗練された良いデザインで実に素晴らしい、と。もしかすると、人間が初めて出会うアートというものは、おもちゃなのではないかと感じ始めたようです。

美術教育の専門家の端くれとしては、おもちゃを無視できず、おもちゃもやるべきだと、研究所の付属施設におもちゃ美術館というのを創ったのです。それが当館のルーツになります。

そのとき、「おもちゃ博物館」や「おもちゃ資料館」と名付けなかったのは、やはり父の考え方が、「人間が初めて出会うアートとはおもちゃなのではないか」ということにあると思います。

約40年前におもちゃ美術館ができましたが、そのときは、こじんまりとした美術館でした。中野サンプラザの近くにあった芸術教育研究所の4階建てのビルの2階と3階がおもちゃ美術館です。1階と4階は研究所のオフィス。研究所のおまけとまでは言えないですけれど、小規模な事業規模でやっていたのです。このおもちゃ美術館をいつかは大きくしないといけない、でっかくするんだと、父は夢を語っていたのですが、急に亡くなってしまいました。平成8年のことです。

芸術教育研究所に入所

昔の私は、父のいる業界に全く興味がなく、子どもやおもちゃ、子どもの絵の指導などは、どうでもいいと逃げ回っていたんです。

学生の頃はバブルの時代ですごく景気が良くて、内定をいくつ取るとか、どうすれば商社に入れるかとか、そんなことばかり考えていました。

父の仕事に全然興味がなかったんですけれど、巡り巡って社会的経験を積むと、父がやっていたことは、まんざらどうでもいいことではなく、ちゃんと社会的に意義のあることではないかという考え方が芽生えてきました。

昭和62年、26歳のときに父の研究所の門を叩いて、それでしばらくやっていこうと思っていたら、10年もたたないうちに父が亡くなってしまったんです。

それで否応なしに跡を継がなくてはいけない立場になって、それから10年ほど、孤軍奮闘でおもちゃ美術館を運営していました。その頃は世のなかにまだ木育の「も」の字もない時代です。

旧四谷第四小学校校舎に移転

そんなとき、四谷の住民の方たちが団体で面会にきて、地域の学校(四谷第四小学校)が廃校になってしまうので、当館に中野から四谷へ全面移転してほしいと直談判されました。廃校になった校舎をなんとか守りたい、このままだと取り壊されて高層マンションになってしまうとあせっていたようです。

学校を見学してみると、昭和10年に建てられたこの校舎は、とんでもない歴史的建造物でした。実は前の立派な木造校舎が火事で焼けてしまい、住民たちが子どもたちに申し訳ないと、みんなで寄付金を集めたらしいのです。それを当時の東京市役所へお金を持って行くと、普通の小学校が2つ作れるくらいの金額に市役所職員がびっくりしたそうです。その多額の寄付金を使って日本に誇れるような代表的な小学校を作ろうと、ドイツ人建築士に設計を依頼して建てました。だからこの校舎に対して住民の方たちが愛してやまないんです。しかも自分たちで身銭を切っています。まあ今の世代の人は一文も払っていませんけれど。でも住民たちで作った校舎という当事者意識がすごくあって、長老の方たちにいろいろと話を聞かされるものですから、私も胸が熱くなってきて、俄然やる気になってしまったんです。

そんな経緯で、中野の芸術教育研究所から、こちらの旧四谷第四小学校の校舎に全面移転しました。

その際、住民の方々から提示された条件の一つが、NPO 法人としてきてほしいということだったのです。

おもちゃは子どもが生まれて初めて出会う芸術

NPO 法人芸術と遊び創造協会

実は、父が亡くなった後に、私は日本グッド・トイ委員会という別のNPO 法人を創っていて、芸術教育研究所というのは株式会社だったのです。株式会社なのに、社会事業のようなことばかりしていました。それで、この機会に芸術教育研究所の社会事業のところは別のNPO 法人として活動しようと、切り離したのです。

日本グッド・トイ委員会ではGOOD TOY Awardsという、おもちゃの世界の「本屋大賞」みたいな賞を認定しています。本屋大賞は書店員が売りたい本を選ぶ賞で、GOOD TOY Awardsは全国のおもちゃコンサルタントが選ぶ賞です。

芸術教育研究所と日本グッド・トイ委員会と2つを同時進行で経営をしていたんですが、やっているうちにほぼ同じ方向を目指していますし、どちらも代表は私です。一緒にしてしまったほうが効率がいいということで、「芸術と遊び創造協会」というNPO法人にしました。この活動を2つ足して2で割ったような法人名になって4~5年が経とうとしていて、このNPO 法人でおもちゃ美術館の運営やGOODTOY Awards の選定などを行っています。

壁面に飾られた一口館長:イメージ

一口館長制度とおもちゃ学芸員

四谷に移転して、おもちゃ美術館の規模は10倍くらい大きくなりました。民宿の親父がいきなりリゾートホテルの支配人になったくらいの違いで、最初の頃は身体を壊しそうになりました。新宿区との契約も、指定管理などの補助金が出るのかと甘く考えていたら、通常の賃貸契約です。改築費も必要です。もうやめようと思ったことも何度もありましたが、NPO の理事をはじめ、いろいろな方たちから「努力をする前に諦めちゃいけないんじゃないか」と諭され、続けることにしました。

そこで、2つのことを始めました。一つは、「一口館長制度」です。一口1万円寄付すると、あなたのお名前を壁面に半永久的に残しますというものです。これでかなりの額の寄付が集まりました。

もう一つは、「おもちゃ学芸員」です。おもちゃ美術館というのは、少人数のスタッフで日中ガランとさせていてはダメな施設なんです。おせっかいものがいろんなフロアにいて、ママが靴を履こうとしているときは赤ちゃんを抱っこしてあげたり、パパが暇そうにしていたら江戸時代のからくりおもちゃのワークショップを紹介したり、楽しみを見出せない家族がいたら、流行りのボードゲームをお誘いしたり。そういうおせっかいものが、うちのおもちゃ美術館のホスピタリティなんです。
ただ、それを充実させようと思うと、とものすごく人件費がかかります。それがジレンマでした。

それで、これはもう史上最強のボランティア部隊を作るしかないなと思ったのです。ただ「ボランティア募集」では人は集まってこないでしょう。そこで名称を変えて「おもちゃ学芸員」というものを創設しました。「おもちゃ学芸員養成講座」を開講し、第1期生定員20名を募集します。すると180名からの申し込みがきたんです。もうびっくりしました。それですぐ2期、3期と続けて、おもちゃ美術館はまだできていないのに、10期までやってしまったんです。

だからグランドオープンのときには赤いエプロン付けて、おもちゃ学芸員200人がそろいました。その瞬間、私は「あ、このおもちゃ美術館うまくいくな」と思ったんです。何の確証もないんですけど、ものすごく勇気をもらえました。

そこで初めて学んだことは、いわゆる「一口館長」というのは「お金の寄付者」です。では「おもちゃ学芸員」は何をする人なのかと考えまして、この人たちは「時間の寄付者」なのだろうと気づきました。

「お金の寄付」と「時間の寄付」とダブルの寄付です。これは後付けですけど、この力を借りて、おもちゃ美術館をやっていこうと思いました。

この考え方は、後々姉妹館を作る際にも活かしています。つい先日、檜原村にも姉妹館ができましたけど、檜原村も同じことをやっているんです。

当初は檜原村の人たちも、すごく反対しました。おもちゃ学芸員養成講座なんて、こんな辺鄙な村でやっても誰も来やしないですよ、と。東京の大都会でやるから成功するんですと、村役場の人もみんな乗り気ではありません。でも、まずはやってみようと、実際に開講してみたら、たくさんの人が来ました。都心からではなく、八王子や立川や日の出町など、多摩の人たちがどんどん受講者になって集まってきたのです。檜原村のために一肌脱ぎたいという人がこんなにもいるのかと、もう村長など涙を流さんばかりでした。結局150人の巨大ボランティア組織ができあがります。

初めは村の人々の反対にも合いましたが、実際にやってみて、それをすごく実りあるものにしたことが、うちのおもちゃ美術館にとってとても財産になったなと思いました。

「お金の寄付」と「時間の寄付」でやっていこう:イメージ

「お金の寄付」と「時間の寄付」でやっていこう

美術館の収蔵品収集術

おもちゃ美術館の収蔵品については、中野の小さいときから、四谷に移転してからも、数としてはそれほどの変化がなく、おおよそ100か国10万点のおもちゃを収蔵しています。これらはオークションで競り落としたわけでもなく、全部もらいものです。

実は、私の父がよそ様からおもちゃをもらうことにかけては天才でした。これは私もそばで見ていたので、その手法をずいぶん学びました。

父にはお金がなくても、仲間がたくさんいたのです。日本全国に図工の教師や、幼稚園の先生など、たくさんの仲間がいました。その1,000人ぐらいに通達を出すのです。「おもちゃ美術館を作ろうと思っているので、あなたの地域の郷土玩具を一つ、私に寄贈してくれませんか」と。するとみんな弟子のようなものですから、郷土玩具を送ってくれまして、1,000点くらいあっという間に集まってしまいました。

それをそのまま収蔵庫に仕舞いこんだりせず、その1,000点をどーんと海外に持って行くのです。パリやコペンハーゲンや、モスクワや北京などの大都市で「日本のおもちゃ展」という展覧会を開きます。

現地の人は日本の郷土玩具を見て、みんな「美しい」とか「素晴らしい」「こんなに多様なのか」と口々に褒め称え、展覧会は大成功。

すると父は、地元の実行委員会の委員長の立場の人に、展示品を全部あげてしまうんです。「あなたにこれを託します。あなたはこれからモスクワだけではなく、ロシア全土で巡回展示会でまわればいいのです」と。その方も現地のマスコミの取材を受けて気持ちよくなっていますので、すごく歓迎されます。そして父が「その代わりに、ロシアのおもちゃを1,000点くらい頂きたい」と言うと、どんどん集めてくれるのです。

その方式で、いろんな国からたくさんのおもちゃが日本に船便で届きました。こうして、世界各国のおもちゃの宝庫になっていったのです。

また、ある程度おもちゃ美術館をやっていると自然発生的におもちゃが集まってきます。例えば、亡き父がこけし500本ぐらい集めていて困っています、など。遺族が処分に困っている郷土玩具をどんどん寄贈して頂きました。

そんなことをずっと50年間やってるうちに100か国10万点ぐらいになってしまったんです。

姉妹館の企画展示コーナー

おもちゃ美術館は檜原村を含めて全国に8つ姉妹館があります。そもそもおもちゃ美術館は、ガラスケース越しにおもちゃを見るというタイプの施設ではありません。体感型というか、体験型というか、木のおもちゃがいっぱいあふれていて、そのおもちゃで好きなだけ遊ぶというところです。木のおもちゃによる森林浴みたいなところがおもちゃ美術館なんですが、ただ一つくらいは企画展示のコーナーを作っています。

各館には小さくてもいいから、必ず企画展示室を作っていて、そこに私たちが貯めたコレクションを全部旅させているんです。

だからうちの収蔵品はみんなのものということで、収蔵庫にずっと仕舞いっぱなしはもったいないですから、どんどん日なたに出しています。

うちがなぜ美術館と名乗っているか、ということにかかってきますので、展示品を見るところもちゃんと作らないといけないと思っています。

木育の取り組みを始めたきっかけ:イメージ

木育の取り組みを始めたきっかけ

木育の取り組みを始めたきっかけは、やはりここの四谷ですね。四谷の校舎の12の教室を、どうビフォーアフターしていくか、ものすごく悩みました。

どうすれば入館者は来てくれるだろうか、と。自分が新宿区民の1人として、新宿に足りないものは何なのだろうと模索しました。それはまさしく自然や木の香り、木の体験がここには全くないなと気づいたのです。そこで、ここを国産木材、日本の木で、木の香りがプンプンするようなミュージアムを作ったら、絶対人が来るだろうと思いました。

それがきっかけで木を多用するという方針が決まったわけです。それをデザイナーや建築家にも伝えました。「とにかく木のおもちゃの森林浴や、木の香りがプンプンするミュージアムにしたい」と。普通のおもちゃ博物館みたいなものは、絶対作りたくなかったのです。そして、それが見事に当たったんです。たくさんの人々が来てくれました、特に若いパパやママがやってきて、「あー、やっぱり木っていいよね」ってつぶやいたり。やはり人々は木の癒しを必要としているんじゃないか、こういう風にしてよかったなと思いました。

すると、あるときからスーツを着てる方たちが何人か来るようになったんです。あんまり楽しそうに遊んでいないし、この人たち何なのかなと名刺交換してみると、林野庁木材利用課の方でした。

話を聞いてみると、都会のど真んなかで国産木材をふんだんに使っていることに彼らは感激しているんです。いろいろと話をしたら、林野庁としては「木育」という言葉を「食育」くらい国民に浸透させたいのに、全然流行っていない、と。ここには、若いパパやママ、木育を知って頂きたい方たちがたくさん来ていて、そこにアピールしていきたいのだそうです。「木育の、国の事業をやりませんか?」とお声がけを頂きました。でも、公共では随意契約がないため、ぜひともうちのほうから手を上げて頂きたい、と。

「木育」を国民運動にできないかな

でも、私たちはしがないNPOでしたから、国の事業は自分たちの役割じゃないと思っていました。適当に聞き流していると、再度来て「まだ手が挙がっていませんよ」と。すごく勧めてくるので、あちらも本気だったのでしょう。

それで「じゃあやります」と申請書を出したら受かってしまいました。こんな都会のど真んなかのいち美術館が、国の木育推進のセンターになってしまったんです。

これが木育の取り組みを始めた一番のきっかけです。声をかけて下さらなかったら、絶対にやっていません。だから木育というのは、私たちにとって後付けなんです。

それでも、取り組みを始めるに当たっては「おもちゃ美術館が目指す木育って何だろうか」ということをすごく模索しました。うちらしい木育とは何をやるべきかと、すごく考えるようになりました。

一番最初は、移動型のおもちゃ美術館「木育キャラバン」をやってみようと提案しました。木育セットを作ってトラックに詰め込んで、サーカス一座のように全国を巡るのはいかがですか、と。すると林野庁の方も、それいいですね、やりましょうと言ってくれました。

それで、初期の木育キャラバンのセットは、全部公的補助で作ったわけです。全国至る所にキャラバンを走らせて、一番ピークのときは4セット同時多発的に、年間50か所ぐらいの場所に行って木育の普及活動を行いました。

いろいろな市町村に行って、大歓迎されるんです。たくさんの人が来て、「木の力ってすごいですね」と学んで帰ります。また「私たちは林業地でありながら、山のほうに背をずっと向けてました」と人々の意識が変わった地域もありました。すごく嬉しかったし、手ごたえも感じましたね。

次に手がけたのは、人材の育成です。私たちは「おもちゃ学芸員養成講座」を含めて、いろいろな養成講座を行っていましたので、木育の専門家の養成を、ぜひやるべきだと思っていました。

そこで木育インストラクター養成講座を開講し、資格を創設します。そして木育についてのテキストを作ったりもしました。これもまた、受講される方が多くいらっしゃって、喜んでいます。今、木育インストラクターの方は、おそらく1万人ぐらはいるんじゃないでしょうか。

林野庁の方もすごく喜んでくれました。数年ほど取り組みを行って、それなりに評価もされたのですけど、あるとき「なにか違うな」と思い始めたのです。「このぐらいのことでいいのか?」と。イベント業者がやるくらいのことしかしていないような気がしました。もっと世のなかを揺り動かしたい、もっと木育が国民運動みたいになるようにできないかなと思い始めたのです。

「赤ちゃんの手形・足形づくり」はワークショップで大人気:イメージ

ウッドスタート宣言

そして生まれたキャッチフレーズが「ウッドスタート宣言」です。身の回りのものに木材を活用していくことを謳う「ウッドスタート宣言」を、国民一人一人にやってもらうのはどうだろうかと思いつきました。「我が家もウッドスタート宣言しました!」と、みんなにやってもらうんです。

発想はいいかもしれないけれど、それどうやって広めるかが課題です。ホームページに載せるとかポスター作ったぐらいでは、絶対そんなに広まらないですよと、いろいろな方にけちょんけちょんに言われました。

それならこれを、もっと大きな面で攻めていったほうがいいと思ったのです。そして、ターゲットを市町村にしました。市長、町長、村長、この方々をその気にさせて、いわゆる「ウッドスタート公式宣言」を市町村がやったらどうかと。そして、いろいろな市町村をずいぶんと攻めたんです。そうしたら首長の方々が聞く耳を持ってくれました。みなさん、それぞれの自治体で山のことで問題を抱えていますし、実際に木製品が生活のなかからなくなっています。町長や村長が山持ちであったりすると、なおさら自分事のように聞いてくれました。それで攻めていけばいくだけ成果が出て、みんなウッドスタート宣言をしてくださるんです。

ただ、気楽に言葉を発するだけではすませたくなかったので、約束事を作りました。

必ずやらなくてはいけない必修の取り組みとして「誕生祝い品事業」があります。市町村で赤ちゃんが生まれたら誕生祝い品として地産地消の木のおもちゃを配らなくてはいけません。地元の木で地元の職人さんがおもちゃを作って、それを市町村長が寄贈するのです。

ほかに公立の保育園などの内装に地元産の木材をふんだんに使う「子育て環境の木質化」や、先ほどの「木育キャラバンの実施」などのうち、2項目を実施することで、「ウッドスタート宣言」をすることができるルールを定めました。

令和3年現在で、ウッドスタート宣言している自治体が54ありますけど、すべての市町村で地域材のおもちゃを作っています。これをずっと毎年、やめることなくやってくれているわけです。

ウッドスタート宣言の約束ごと

私としては、ウッドスタート宣言の取り組みはすごく良かったなと思っています。

各自治体に、小中学校の机の天板には地産池消でやりませんかと声がけしています。足はスチールでもいいですけど。これも悲しいほど地域材を使っていないんです。東京の大手メーカーのカタログで選んでしまって、全国どこの小学校に行っても同じ机です。きっとそれは地域に作らせていないからでしょう。東京の会社にお金を落とすのではなく、地元の産業にお金を落としたほうがいいじゃないですかと市町村長に説明すると、納得して聞いてもらえます。

あとは園舎や校舎、庁舎になど、税金で作る建物もなるべく木造建築物でやりましょう、と勧めています。木造が厳しいようであれば、内装木質化くらいはやりませんか、と。さすがに努力目標にはなりますが、約束をして頂いています。

最後に4つ目の約束というのがあります。人間には必ず「最期の木育」というのがあって、実は「棺桶」なんです。棺桶が、人が木と触れ合う最後なのですが、地域材で焼かれている人なんてほとんどいません。みんな中国の安い木で作られた棺桶を葬儀屋から高く買わされています。

だから秋田の方なら秋田杉で、奈良の方なら吉野のヒノキで焼かれたほうがいいんじゃないですかと勧めています。地域材の活用になりますから、市町村長もそういうのは大事なことと言って頂けるんですが、なかには「地域材で焼かれると何かいいことあるの?」と聞かれることもあります。残念ながらご本人へのヒアリング調査はできていません(笑)。

それでも秩父市長は予算を組んで、秩父材のケヤキとヤマザクラとスギの3種類の棺桶のサンプルを作って、市役所のロビーに1か月間ぐらい展示していました。すると秩父市民の方々が、みんな入るらしいんです。「俺はヤマザクラがいいな」などと言ったりするそうです。私がロビーに行ったときは、85歳ぐらいのおばあさんが入ろうとして、ちょっと洒落にならなくて、お嫁さんが止めているということもありました。

そんな風に、なるべく楽しく、なるべく地域にとって意味がある「木育」を進めようと、「木育」という言葉はあまり使わずに、「ウッドスタート」と言っています。今はもう完全にウッドスタートがうちの骨太の方針になっています。

木育サミット

ウッドスタート宣言で、全国54の首長たちとの一大ネットワークができたわけですが、その方たちを年に1度ぐらい集めないといけなくなってしまいました。ちょっと交流会をやりますといって来るレベルの方々ではありませんから、多少格好つける必要があります。そこで「木育サミット」というと、この方々も集まりやすいだろうと思いました。東京に行くには理由が必要らしく、やはり木育サミットならどうしても行かなきゃいけないという使命感のようなものを感じるようです。

おかげさまで、皆さん木育サミットの出席率も良くてありがたいことです(笑)。木育サミットとはウッドスタート宣言をしている各自治体の実践報告会であり、その首長たちのパネルディスカッションなども行っています。「林野庁長官を囲む会」なども行いましたところ、ここぞとばかりに長官を攻め立てる心ない市長もいらっしゃいました(笑)。

木育サミット:イメージ

おもちゃ美術館の姉妹館

木育やウッドスタート宣言、木育サミットなどの取り組みをしていると、だんだん私が予期せぬ現象が起き始めたのです。首長たちから、「誕生祝い品を配るだけでは物足りない。うちの町にもおもちゃ美術館を作りたい」などの声が出始めました。それは単なる「木育推進」などではなく、理由の一つは観光資源になるからです。廃校になった校舎にも、たくさんの人が来てくれます。

もう一つの理由は、定住政策です。こういう取り組みやおもちゃ美術館のような施設をしっかりと作っている地域には、子育て世代が移住したいと思うらしいのです。純粋な「木育推進」などではありませんが、それでも木育を国民運動にするためには、こうしたことも必要だと思っています。

一番最初におもちゃ美術館の姉妹館を思い立ったのが沖縄の国頭村の村長です。ヤンバルクイナが生息する最も北端の森を持つ村に、まず第1号の姉妹館を作りました。第2号が山口県の長門市です。海の近くに作りました。

そんな風にどんどん姉妹館を増やしているうちに、檜原村で8か所目になったわけです。檜原村ではおもちゃ美術館の横におもちゃ工場を作りました。

飛騨高山から木工職人を2人ほど呼んで、完全に100% 多摩産材で作っているんです。実は檜原村はトイビレッジ構想を持っていて、お手本にしているのがドイツのザイフェンという村です。ザイフェンは世界ナンバーワンのおもちゃの村で、檜原村と人口規模がほぼ一緒ですが、ザイフェンにはおもちゃ工房が150、おもちゃ屋さんが30店舗もあるのです。檜原村にはもちろん一つもありません。ザイフェンを目指すためには、おもちゃ美術館を作るだけでは駄目ですから、おもちゃ工房を作りました。幸い、檜原村では村長がこのトイビレッジ構想に乗り気で、多摩産材の供給などにも全面協力して頂いています。

檜原森のおもちゃ美術館 姉妹館協定締結式・おもちゃ学芸員出発式:イメージ

「木育」が必要な人々

「木育キャラバン」や「ウッドスタート宣言」などで全国をまわって感じるのですが、都会の子どもと地方の子どもで、木育に差はない思っています。

ゲームが中心で、ほぼ同じような遊びをしていますから、町から子どもが消えているのです。現状では地域差はありませんが、地方の子どもたちのほうが自然が近くにあるので、触れ合いやすい環境にあります。もっと子どもたちに木と触れ合って遊ぶことを覚えてほしいですね。

中高生にとっての木育は、ものづくりを推奨します。技術家庭科で木工作業を学ぶと思いますが、絶対に時間数を減らしてはいけません。鉄やプラスチックと違って、木は加工しやすいですし、いろいろと学ぶことが大きい素材です。木というのはTree の段階では当然生きていますが、伐られてWoodになっても、私は死んでいないと思っています。中高生の多感な時期に、生命を感じてもらうことは非常に重要です。実は木に触れる、自然に触れるということはいいことばかりではありません。森のなか、山のなかが怖いように、非常に面倒くさいことなんです。

それでも感情豊かな青春時代に、自然から、生命から学ぶべきことは多いと思います。学校でプログラミングを教えることが重要課題のように言われている時代ですが、もっと大切なことを学ぶことができるのが、中高生にとっての木育ではないでしょうか。

木育は子どもたちだけではなく、高齢者にとっても必要だと考えています。特に効果があるのは、アクティブシニアよりも要介護のお年寄りたちではないでしょうか。特別養護老人ホームや、老人保健施設、デイサービスセンターなどでは内装の木質化など、もっと木に触れる機会をたくさん作るべきだと思っています。内装の木質化が認知症や身体の麻痺などに一定の効果が見られるという実例報告もありますし、大学での研究も行われています。木に触れる、木に取り組むということで、お年寄りの生活がもっと健康的で豊かになるのではと、考えています。

おもちゃ美術館の今後の展望

私の本当のねらいは、日本はせっかく世界第3位の森林大国ですから、それにふさわしい「木のおもちゃ大国」にしたいのです。あまりこれを言い過ぎると、ヨーロッパの木のおもちゃを輸入している会社から、排斥運動だと叩かれるのですが(笑)。そういうことではなく、現在1%の自給率をせめて30%、木のおもちゃを100個並べたら、30個はメイドインジャパンの木のおもちゃにしたいのです。

今、一番売れている積み木はマツの木の積み木なんですが、残念ながらフランスの木なんです。北海道にはいいマツの木もありますし、ぜひ日本のマツの木のおもちゃを流行らせたいと思っています。

また、今後の展望としては、姉妹美術館の空白県をなくすという目標があります。それが、果たして本当にたどり着けるのか、些か不安ではありますが。

そして木育のアジア進出です。本当は数年後にミャンマーにおもちゃ美術館を作る予定でした。私も何度も現地に行って、館長まで決まっていたんですがクーデターが起きてしまい、それどころじゃなくなってしまったんです。しかたがないのでミャンマーはしばらくそっとして、ベトナムにしようか、シンガポールにしようかと、今は候補国を検討中です。台湾の方から、台湾に作りませんか? というお誘いもありまして、それもいいなと思ったりもしています。

まずは、おもちゃ美術館の空白県をなくす、プラス、アジアに足掛かりをつける、そういうことを考えて木育への取り組みを行っています。

「おもちゃ美術館」の空白県をなくしたい
「木育」をアジア進出させたい

多田 千尋:イメージ2